かなでだよ

好きなことをゆるゆるやります

書くことの意味

早くも講義の最終課題の締め切りに追われているかなでだよ。

院連携科目の中でもテストではなくプレゼンで評価が決まる科目ばかり取ったおかげで?せいで?忙しさのピークが早めに来てるんだ。踏ん張りどころだね。

今日は私がブログを始めたきっかけの一つがなくなってしまったことを改めて実感したので、少し綴ってみようと思いまして。そんな時間はないのだが、やりたいことはやるよ。趣味も大切。

ブログ開設のきっかけに少しだけ触れた回

文章”生成”

皆さんご存じChat-GPTの台頭により、教育機関の課す課題にも影響が出ていますね。誰でもものの数分でそれなりに整った体裁のレポートっぽい文章が”生成”できてしまうようになりました。自分の頭で考えず、生成された文章をろくに確認もせずにぶん投げても読み手にはそれが分からない可能性すらあります。恐ろしい時代です。今はまだChat-GPTは嘘だらけだという主張も目立ちますが、そのうち人間と同程度には間違えなくなるはずです。食わせている情報の元は人間のものですからね。盾にするには弱いんじゃないかというのが個人的な考えです。

さて、文章は人間が生み出すものだけでなく、コンピュータが生成するものも含めて考えなければならなくなりました。人間が書くことの意味を、改めて考える必要が出てきたんじゃないかと思います。

 

講義課題の変化

私が文章を書く、自分の考えを言葉にしてアウトプットすることの楽しさに気づく契機となった講義のレポート課題も、今年度から小テストに変更になったようです。時代に合わせて柔軟に講義形式を模索する姿勢には敬意を表したいところですが、それ以上に寂しさがこみ上げてきました。私は毎週講義を聞いて、その内容から考えられたことを文章に起こすという行為に講義の価値を見出していたから。もちろん講義そのものも興味深い内容だったんですが、そこから考えを巡らせる、過去の記憶と結びつける、これからの行動に活きていくという流れを感じることができる課題が好きでした。

それっぽい文章が簡単に生成できるようになった今、頑張って取り組んだ人が報われない科目にならないためにレポート課題の比重を小さくするのは、解決策として正しいのかもしれません。研究教育機関に身を置く学生は全員が全員望んで研究や学習をしたいと思い籍を置いているわけではないというのが、非常に難しいところです。こうした集団の中で成績が進路に影響する仕組みでは、頑張った人とそうでない人を振り分ける方法を模索するほかありません。

 

それでも私は書きたい

私が必死に考えて作った文章ようなが生成AIを用いれば物の数秒で作れてしまうわけですが、私は自分で言葉を紡ぎたいと思います。以前もどこかで言語化を推した記憶があるけれど、自分なりの言葉で表現することは大切だと考えているからです。創出された文章でも、生成された文章でも、好ましく思った表現は取り入れたり、自分の中に落とし込んだりしていきたい。そして自分の表現として使えるようになることが、楽しいんです。

今後文章を書くことを求められる機会が減ってしまったとしても、私は文章を書くでしょう。それは自分の思考の外化によって、理解を深める行為に他ならないからです。あいにく私は要領が悪いので頭の中だけでは考えがまとまらないことが多いわけでして。そんなことも含めて、まずは自分のために文章を綴り続けます。

 

おわりに

いつも通り勢いに任せて表現してきたので、とりとめもないお話になってしまいました。読んでくださった方は、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

まずは自分のため、あわよくば目にとめてもらえたら嬉しい。さらにはその人の感情を何かしら動かすことができたら、書き手としての私は感慨無量です。

それでは今日はこの辺で。あー明日必要なスライドが未完成だ…