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言い換えのすゝめ

入試シーズンだからだろうか。ある日の帰り道、ふと思い返していたことがある。受験勉強をしていてよく耳にした、パラフレーズについて。私の受験期における成長を、この言葉を使わずには語れない。普段から意識するようになったことによって、私の生活の様々な場面で物事の捉え方が変化したようにも思う。

 

パラフレーズとは

パラフレーズ広辞苑 第七版より)

①語句の意味を別の言葉でわかりやすく述べること。敷衍(ふえん)。
②ある楽曲に新たな要素を加え、自由に編曲すること。また、その曲。敷衍曲。改編曲。

ここでのパラフレーズは①を指す。私に編曲の知識はなく、受験期に編曲の知識を蓄え使う予定もまたなかった。

 

受験で活用したパラフレーズ

今となっては自身のスタンスとしてすっかり浸透してしまったので、最初にパラフレーズしなさいと言われたのはどの場面だったか覚えていない。かすかな記憶を手繰り寄せるとそれは英語だった気がする。…いや現代文だったかもしれない。今となってはわからないけれど、複数の科目でキーワードとして扱ったような気がするのだ。

とにかく私は受験期に、問題を解くときはパラフレーズをしろと学んだ。最初は何を簡単なことをと思っていたが、存外奥が深い。傍線部が何を説明しているのかを問われたときは、筆者の主張をパラフレーズした選択肢を探す。言い換えているだけの同じ意味の文を探すのである。聞くと簡単に思えるが、与えられた文章から読み取れるものだけが正確に言い換えられているものを選ぶ必要がある。これができれば、例え選択肢がなくとも正解を導くことができる。つまり選択問題も記述問題も同じ流れで解けるという理屈だ。ふむ、理屈はわかるが実際にやるのは難しい。高校まで大雑把にしか文章を読んでこなかった私には、かなりの意識改革と語彙の蓄積が必要だった。

また他にも、筆者は自身の主張を強めるために何度も言葉を言い換え、繰り返し表現する。読者に伝えようと何度も何度も繰り返す。筆者の言葉を私たちが言い換える以外にも、筆者自身も言い換えを行うこともあるのだ。むしろその方が触れる頻度としては高いだろう。言葉を変え、繰り返される主張こそ、本文全体を通して伝えたいメッセージであることがわかる。まずは筆者自身のパラフレーズにたくさん触れ、自分でパラフレーズできるようになる。すると他の人の言い換えも容易に見つけられるようになるのだ。たくさん分に触れることの意味はここにもあるのではないか。

 

多くの応用先

現代文の傍線説明問題は、先に述べたような流れで解く。つまり傍線部で説明したいことはどういうことか、という言い換えの問題とまとめることができる。一方で古文や漢文でも傍線部周辺を現代語にパラフレーズしてみると、要点が見えてくる。分かりにくい古語のまま考えるよりも、普段から思考に使っている現代語に変換してからのほうが、文全体としての意味も見えやすくなる。

活用の場面は文章と問題が与えられた時だけではない。外国語の訳でもパラフレーズは有効である。翻訳はつまるところ、言語も含めて言い換えていることに他ならない。そして、つまり何が言いたいのか?の言い換えなので、逐語訳ではなく綺麗な文章になることが望ましい。おおよそ意味がそのまま伝わるためには、一文を一文で言い換える必要すらない。本質を捉えることが肝要なのである。

よって英語同様、古文・漢文でも問題となっていない部分や読解でもパラフレーズは有用である。言い換えは、つまりはどういう状況か、どう思っているのか、何がしたいのか、などの情報を自分の言葉で言い換えることに他ならない。つまり言い換えるためには本質を見抜く必要があり、言い換えることで理解が深まるのである。

 

本質を捉える

様々な場面で諭される、本質を見極めろという言葉。私自身も心理学系の講義のディスカッションで紹介されたテクニックや知識に対し、度々結論として主張するが、今一度どういうことかを考えてみる。

本質は何か、を表現するには、「一言で表すとどうなるか」を考えることが最も手っ取り早い。そして一言で表すには、物事を子細に説明する冗長な文章をまとめ、簡潔に「言い換える」必要がある。パラフレーズだ。適切なパラフレーズができれば物事への理解が深まるし、理解できていることを示すこともできる。削ぎ落としても良い情報と、外せない情報の取捨選択ができなければ、上手にパラフレーズできないからである。

ここでさらに応用の具体例を考えてみる。私が趣味で取り組んでいる競技プログラミング(競プロ)では、しばしば問題文の読み換えがキーとなる。競プロがイメージできない人は私の過去の記事を読んでもらってもいいが、ここでは数学の文章題だと考えてもらうだけでも構わない。私が最近数学の文章題に触れていないため競プロが先に頭に思い浮かんだだけで、数学の文章題でも同じ議論は展開できる。というよりほぼ等しい。
プログラミングでは、数多くのアルゴリズムを駆使して与えられたパラメータから求めたい数値を算出する関数を作ることが多い。しかし与えられるパラメータの形式や得たい出力の形式、またそれらの間の関係は文章で記述される。この文章をプログラムに書き換える、すなわち関数に言い換えるというのが、プログラミングの重要な要素の一つである。入力形式や内部での計算で用いるデータも、そのままではなく別の構造に置き換えることで処理が効率化する場面も多々ある。例えばバケットソートは入力そのものを保持せずに必要な出力を得られる例として考えられよう。
解決したい問題を一般化すると、どんな問題に帰着できるか。そしてそれはどのアルゴリズムを用いることで効率的に処理できるか。数学で言うところの、典型パターンに落とし込むプロセスだ。これは問題を言い換えによって解いているに他ならない。少なくとも私はそういう風に解釈している。

 

理系にも必要な力

国語、外国語、プログラミング、数学でもパラフレーズは有用である。では理科ではどうだろうか。もちろん有効である。どんな問題も全ては文章が正しく理解でき、自分の言葉で言い換えることができるかがカギなのだ。現象を説明する際に専門用語で説明できることも大事だが、誰にでもわかる平易な言葉ではどうなるかも同時に考えるとよいだろう。近年話題のサイエンスコミュニケーションとかいうやつだ。

これまで述べてきたように、私はパラフレーズという強力な武器を自由に使うために必要な能力はつまるところ文章力だと思う。読解はもちろん、表現も必要である。インプットとアウトプットはワンセットなのだ。文章を正しく理解し、要点を違えずに言い換えるには、自分の中にそれなりに豊かな表現と理解を蓄えておく必要がある。雑に言うと、自分の言葉で説明できなければ理解しているとは言えないのである。ここは特に意見が分かれる部分だとは思うが、少なくとも私はそう自戒している。しかし同時に、説明できなくてもいいものもあるとも思っている。矛盾しているように聞こえるが、相反する思いはしばしば同居するものだ。

 

まとめ

物事の説明はすべてパラフレーズの繰り返しである。何かを伝えたいと思って綴る文章は、伝えたいことを何度も、何通りにも言い直すことで、最終的に多くの人に理解してもらうことが目的である。本文も例に漏れず。一言で表すことができるのが理想だが、一度で言い表せるものなど多くない。そのため、たくさんのボキャブラリーを駆使して言い換えを繰り返すことで、いつか誰かに伝わることを信じている。主張を繰り返すことは説得力を増すこと以外にも、人によって異なる「腑に落ちる表現」に当たるまで試行を繰り返すことだと、私は考えている。

ここまで読んでくれた人は多くないと思うが、最後に。ここに記した内容はあくまで私の解釈である。専門的な解釈とは異なるかもしれないが、容赦いただきたい。引用がないことからも明らかだろう。例え間違っていても言語化することで、自分の思考は整理される。それは自分にとっても大きなことだと思うし、既に自分の他に同じ事柄について説明している人がたくさん居たとしても、誰かにとって、その表現ではわからなかったけれどあなたの説明で理解できる、といったこともあるかもしれない。あるいは様々な人が少しずつ違う表現をしているのを眺めるうちに、それが自分の言葉となり、自分の思考に活きるかもしれない。たくさんインプットとアウトプットを繰り返すことは、新たな表現に出会うきっかけにも、自身の理解の助けにもなる。明らかに間違っている場合は訂正してくれる人が現れるかもしれないし、そうでないかもしれない。それらも全部含めて学ぶ機会を大切にしていきたいと思いつつ、今回はここで筆を置く。それではまたどこかで。